いのちと千夜ガタリ 一夜目「雪」中谷宇吉郎

雪。
今は10月の半ばだから、雪を見ることができるのは少し先だ。
今年の夏は異常な暑さに肌をベタつかせたから、冬もこれまで通りかは怪しい。
タツにくるまりすぎてダルい思いをすることには変わりないだろう。

 

 

「こんこん」「しんしん」。
日本ならではのオノマトペである。
最近、今井むつみ『言語の本質』を購入したが、本質を知る手掛かりはオノマトペアブダクション推論にあるという。
まだ読んではいない。
見事に積読リストの一冊に名を連ね、部屋を飾るインテリアと化している。
けれども、言語・言葉をめぐる思索に耽り、その正体を感得したいと思う一人なのであるから、松岡をもってして『「言葉の態度」が美しい』と言わしめる中谷の雪原に身を投げ出したくなるのも無理はない。

 

 

中谷宇吉郎という人を調べると、寺田寅彦岡潔との交流にも関心が惹かれるが、何より、ベントレーの写真ではなく自身の目で雪の結晶を見た時の感動、うさぎの毛の先に雪の結晶が輝いた時の感動に、胸打たれる。
厳寒の中で受け取り続けた天からの手紙を読む心境はどのようなものなのだろうか。
筆舌に尽くし難いに違いない。

 

 

『何かの途中の産物』である雪は、シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』で使われる「メタクシュ」=「中間だけにあるもの」と交錯する。
メタクシュが気になりこれまた調べると、池田華子さんの論文『シモーヌ・ヴェイユにおける「メタクシュ」のはたらき』が出てきた。
哲学は言葉遣いが厳密で硬くて苦手なので全く理解できていないのだが、ヴェイユが臨床教育論とやらを相手にしているらしい人だからか、そこはかとなく面白い。
本論文でメタクシュは「仲介するもの」「半ばに位置すること」などとも表現されているが、中でも興味が湧いたのが「待たれつつ、待つこと」という表現である。

 

「子どもは、ひょっとするとパンはないかもしれないと暗に言われたとしても、叫ぶことをやめない。とにかく、叫ぶのである。危険なのは、パンがあるのかないのかと、たましいが疑うことではなく、自分は飢えていないという嘘で安心してしまうことである」

 

嘘で塗り固めた偽物の自分に飲み込まれてはいけないが、パンはなければないのだから、どうしようもない。
子どもに「なんでないの!」と迫られ、困り果てる親の姿が浮かぶ。
もう食べてしまったのだから。
今日の献立には入っていないのだから。
買っておいたはずなのにないのだから。
お金がなく買えなかったのだから。
エトセトラエトセトラ
説明したところで子どもは叫び続ける。
お腹が空いているのかもしれない。
パンの味が恋しくて仕方ないのかもしれない。
欲しいものを手渡してくれる母の愛情を確かめたいのかもしれない。
理由は定かではないが、子どもは求める。期待する。願う。
そして親は困りながらも、どうにかしてパンを差し出す。
あるいは、子どもが満足できる何かを探す。
ここにあるのは甘やかしではなく、何か満たされないものがあるであろう子どものほっとした顔や喜ぶ顔を見たくて応えようとする親の想いである。

 

子どもに願い待たれながら、親も願い応じて待つ。
つまり、「待たれつつ、待つ」。
そんな状況に足を踏み入れようとすること、留まることが、メタクシュなのだという。

 

それから説明や理由という言葉を並べたが、
池田によると、子どもが求めているのは「何故ないのか」ではなく「何のためにないのか」という問いへの答えなのだという。

 

河合隼雄は、恋人が死した理由を探すクライエントをカウンセリング・心理療法の例に挙げることが度々ある。
クライエントは憂鬱な思いや怒りで身を焦がしながら、誰のせいでも何のせいでもない、恋人はもういないという事実とぶつかり、受け入れていく。

 

ヴェイユはこの状況を、運命という必然に倣うこととは捉えない。
子どもやクライエントによる選択や判断が奪われるという「理不尽」や、何者かによる子どもやクライエントに対する「無関心」に「同意」したのだと捉える。
これをどう捉えればいいかとまた悩むのだけれど、人と人の「関係性」の中で行われるコミュニケーションの有り様として捉えようとしているところが面白い。
人が人として人といういのちと向き合うということは、そういうことなのかもしれない。

 

 

重力というメタファーは数年前から気にかけてきた。
どうして人は悩んでしまうのか。
どうしてうまくいかないとわかっていることを繰り返してしまうのか。
どうしてもうやめたいのにやめられないのか。
そこに重力のようなものが働いていると思えてならない。
15
の夜を歌った尾崎豊は自身の重力に潰されてしまったのではないか。

 

Webで『重力と恩寵』を試し読みしてみると、あら驚き、たぶん似たようなことを言っている。
惹かれるものあり、ここなら置いてあるだろうなと思う近所の個人書店に足を運ぶと、岩波文庫版が置いてあった。
さすが店長。すぐに手を取った。
松岡さんが258夜でも扱っているみたいだけど、千夜千冊であればそのページに飛ぶべきなんだろうけど、千夜を順番に過ごすことを楽しみたい。

 

ちなみに重力といえば、アインシュタイン相対性理論も気になっている。
文系からしたら遠かった世界にも好奇心の羽を伸ばせるようになるのが読書というものだ。
同じく岩波文庫で内山龍雄訳の『相対性理論』もそばにあったので手を取ったが、パラパラ読んでそっと棚に戻した。
やっぱりものごとには順番があるよね。

 

 

中谷がメタクシュな雪の「いっとき」を追いかけつづけたように、私もメタクシュないのちの「いっとき」を追いかけたい。

 

 

<参考>

https://1000ya.isis.ne.jp/0001.html

https://www.ifsa.jp/index.php?Gnakayaukichirou

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57013/1/398.pdf